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一 釣 一 夕 Jinenan at waste land

街道をゆく 司馬遼太郎  レビュー9(36-43巻 終)

街道をゆく 司馬遼太郎  レビュー9(36-43巻 終)

街道をゆく〈36〉本所深川散歩・神田界隈 
江戸末期から近代化する日本の激動,
1990年9月21日~1991年7月19日号 週刊朝日に連載
深川木場/江戸っ子/百万遍/鳶の頭/深川の”宮”/本所の吉良屋敷/勝海舟と本所/本所の池/
文章語の成立/隅田川の橋/白鬚橋のめでたさ/思い出のまち/回向院/護持院ヶ原/鴎外の護持院ヶ原/茗渓/於玉ヶ池/昌平坂/寒泉と八郎/漱石と神田/医学校/ニコライ堂の坂/平将門と神霊/神田明神下/神田雉子町/神田と印刷/火事さまざま/銭形平次/本屋風情/哲学書肆/反町さん/英雄たち/三人の茂雄/明治の夜学/法の世/法の学問/如是閑のこと

江戸は室町期に太田道灌が江戸城を築いたことに始まる
京都・奈良が千年以上の歴史を有するに比較して、非常に新しい
しかし家康が江戸入城以来、約400年の間、参勤交代制度により人口集中がすすみ、このため地勢においては低湿地や海岸の埋め立てにより住居を確保する必要が生じ、戦乱もなく安定期を迎え文化、特に庶民文化は成熟したのは周知であるが、凝縮した400年であり、その後の明治 一新 は変革ではなくある意味大革命であった

江戸期、戦乱がないとはいえ江戸詰めする藩士は文武を修めるのが武士の在り方であった。
赤貧に甘んじても金もうけには走らずにやせ我慢するものも多かった 傘張り内職は時代劇でたまに見かける
人口が集中することで関八州のみならず全国から商人、浪人が職や仕官先を求めて集まった結果18世紀には百万人を超えた

市街地普請で本郷台地の切り崩し、神田川掘削など大規模開発や神田上水などの浄水設備がすすみ、この土砂で日比谷入江の埋立が行われた
江戸城はもともと海岸線のすぐそばにあり、これは城郭の整備というよりは港湾が近く大阪や広島のような商業都市としての整備を秀吉が家康に進めたからといわれている  江戸行きを命ぜられたした家康は、当初、なんでまた江戸なんかにと不平があったともいわれるが、家康から秀忠が江戸の基礎を築き、家光が幕藩体制を強固なものにし 江戸の拡張は進むのである

さて本所深川であるが、ここはもともとは汐入の地であり人口増加によって掘割、盛土により新たに造成された
深川は木場の木材商の粋が花開き、花街での遊興など語る
本所は吉良の話

そして神田神保町界隈の話が一番である
各藩士たちは文武に努めねばならず、儒学や朱子学などの私塾や武道場が神田界隈に多くあった
江戸期が熟するにつれて西洋文化を取り入れるために開成学校(東大の前進)が設立
そして明治・一新・には法律というものが存在しなかった日本において、英独仏の法律学校の設立せざるを得ない状況になった
この狭い神田という一地域に大学が集まったというのは 世界的に見ても例がないと思われる

明治、専修、日本、中央、法政大学の前身など  ちなみに日本大学は日本法律学校として設立され、これはイギリスでもドイツでもフランスでもない日本国の法律を教授するという意味での日本である 他の学校はそれぞれの国の法律を学ぶためのものであり
この時期、日本に存在しない法律用語が多々作られたとある

維新には法律を作れる多くの文官が必要であったのだ  その数年後にやっと官立法律学校(東大の前身)が設立された
文官が偉いとされるのは正に近代日本の基礎である法律を文官が作る、この時から始まるのである
そして初期の東京帝大はこの文官を登用するためにのみ存在し、現在の官僚製作機構がこの時から始まるのである
とにかく神田神保町界隈は、法律と法律学のみならず、その黎明期の原書を売る古書街としてさらなる発展を告げるのである。

そんな歴史の大変革期において多くの学徒を出した神田界隈であるが
個人的には浪人時代の定食屋ジローと安い天丼いもや、パチンコ人生劇場、喫茶店サボウル、御茶ノ水駅前の巨大喫茶ウイーンが懐かしく思い出される 

本所深川散歩には  大江戸今昔マップ [大型本] 新人物往来社 がお勧めである
古地図の上にトレーシングペーパーが装丁され現在の道路や建物がうるさくないほどに印刷されている



本郷界隈―街道をゆく〈37〉  この37巻から題名表記が変わり、目的地が先に書かれるようになった
東京が日本の中心、そして文化の中心となった明治,
1991年8月9日~1992年2月28日号 週刊朝日に連載
本郷界隈
鴨がヒナを連れて/縄文から弥生へ/加賀屋敷、”古九谷”とかんざし/水道とクスノキ/見返り坂/藪下の通/根津権現/郁文館/無縁坂/岩崎邸/からたち寺/湯島天神/真砂町/給費生/一葉/福山坂/追分/水戸家/傘谷坂の雨/朱舜水/近藤重蔵/秋帆と洪庵/最上徳内/漱石と田舎/車中/三四郎池

本郷界隈は第36巻の神田界隈とともに読むと江戸末期から明治への激動の歴史が分かってよい
徳川時代には戦乱がほとんど起こらず、江戸を中心とした幕藩体制が確立された
地方での反幕行動を防止するために参勤交代制度が施行された結果、江戸には各藩の江戸屋敷が乱立することとなった
戦乱がないとはいえ武士は文武励行せねばならなかったために、儒学、朱子学の私塾や剣術の道場が数々おこされ、藩士の学ぶ機会はさらに増えた
また若い武士もふえ、工商に従事する人口も増えたために吉原などの公設遊廓だけでなく、岡場所といわれる私娼も栄え歓楽街として発展していった
が、歓楽街の話は本郷界隈にはない

江戸末期、神田界隈には蘭学をさらに学ぶべく西洋文書を翻訳する蕃書調所が設立される。これはその後、開成所、洋書調所と改称され東大の前身となっていく 幕臣が学ぶ場としては湯島に官立の国学を学ぶ昌平黌が設立される
これらの昌平黌(本校)と開成学校(南校)、医学校(東校)が1877年(明治10年)設立の東京帝国大学設立母体となった
洋書調所は明治期において、日本に存在しなかった法律を作成する重要機関としてまた法律を作成する官僚を養成する機関として発足したといってよく当時は日本で唯一の大学であった
私学の法律学校としては明治、専修、中央、日本、法政大学の前身が設立され、神田は法学のメッカとなった
学んでいるのは多くの旧幕臣たちである
法学、医学、東大が加賀藩と水戸藩の跡地に設立されるころの教授はすべて海外からの招聘で給料はすべて国費で賄われた 
東大が各種予算を平気でぶんどっていくのは明治期からの官僚機構のなせる技である それは100年以上たった今でも変わらない

神田から本郷へ
ここが西洋の法律、文化、文明、技術の最先端であり最中枢であった
ここから地方へと伝わっていく根源であった 司馬はそれを配電盤と称したが、地方への伝播にかかる時間はながかった
長くかかるが故に東京と地方との格差、生活だけでなくも意識の格差が生まれた
東京は憧憬の的となり、地方は鄙として落ちぶれていくのである
明治から100年以上、東京中心はいまだに変わらない
あふれゆく人とモノ、土地は埋め立てて増やす これは江戸中期の本所の埋め立て時代と全く変化していない

海外の伝統ある大学は、大本が神学哲学から創始したという大きな違いがあるが、それ以上、雑踏の地に存在することは稀である
自然豊かな中でこそ有意義な勉学ができるというのが西欧の大学立地基準の一つである

官僚養成大学である東大から遅れること20年の1897年(明治30年)にやっと、真なる学問探求の場として京都大学が設立されるのは、遅すぎるくらいであるが、予算がなかったであろうことは容易に想像がつく
自由な校風の中で培われた研究風土のゆえに日本で最初のノーベル賞を受けた湯川英樹や朝永振一郎らを輩出するのは当然のことであろう
しかし2014年現在でノーベル賞受賞者は京大6人で東大より一人少ないのは少しさびしい感がする

そんな本郷界隈であるが、話は夏目漱石を主体として、柔らかく進んでいく
東京は、あまりにも急激な変遷にみまわれたために、その足跡をたどることが時に困難で歴史の重みが少ないということもできる



オホーツク街道―街道をゆく〈38〉
アイヌは北海道に追いやられ、北方民族と文化が混交する,
週刊朝日1992年4月3日~12月18日号に連載
縄文の世/モヨロの浦/札幌の三日/北天の古民族/韃靼の宴/遙かなる人々/アイヌ語学の先人たち/マンモスハンター/研究者たち/木霊のなかで/樺太からきた人々/宝としての辺境/花発けば/ウイルタの思想/コマイ/アイヌ語という川/遠い先祖たち/シャチ/貝同士の会話/雪のなかで/声問橋/宗谷/泉靖一/林蔵と伝十郎/大岬/大海難/黄金の川/佐藤隆広係長/紋別まで/森の中の村/小清水で/町中のアザラシ/斜里町/斜里の丘/流氷/旅の終わり

北海道や沖縄に憧れを抱いてしまうのはなぜだろう
そこがリゾート地として開化していることは一つの理由であるが
底流する歴史、文化があまりに異なるが故に、日本国ではない海外の土地という思いもあるのではなかろうか
もともとは針葉樹林が発達していた北海道だが、美瑛の丘に代表されるように、開拓されつくし広大な景色が広がった
これにより内地には見られない解放感が北海道の魅力の一つであるが、ここにアイヌの悲惨な歴史のかけらも見えない
一方、沖縄は広大な土地こそないが本土にはみられないコバルトブルーの海とサンゴ礁が魅力であることも言うまでもないが
戦後の占領の歴史は色濃く残っている
双方の違いが大きいにもかかわらず憧れを抱く人が多いのは好みが大きく異なる人なのであろうか

さて北海道の歴史は「街道をゆく15北海道の諸道」で松前藩や屯田兵、関寛斎の話がある
今回は、オホーツク海縁で発掘されたモヨロ貝塚や北方民族であるオホーツク人の話である
市民考古学者である米村喜男衛は網走川左岸でモヨロ貝塚で縄文土器とことなる擦文土器を発見した
擦文土器は6世紀ごろから続縄文時代に続く時代に作られアイヌ文化へと移行していく

オホーツク文化(3〜13世紀)の担い手は、氷期に樺太と北海道は陸続きとなり樺太から渡ってきた
ツングース系(中国東北部)のウイルタ族(オロッコ)とニブフ族(ギリヤーク)である
オホーツク文化と擦文文化はやがて融合し13世紀になって北進していたアイヌ文化となる
アイヌが歴史に登場するのはせいぜい13世紀からといわれており、オロッコ、ギリヤークなどの少数民族は徐々に減少混血化が進んでいる

北海道ではアイヌ語地名がまだ多く司馬もいくつかの例をあげている
ナイやベツは川を意味する サロは湿地 サロベツは湿地の川
稚内はワッカ飲めるきれいな水 ナイは川などなど そのほとんど多くが地形から命名されている 岬角地名と呼ぶ
興味があれば山田秀三の「北海道のアイヌ語地名」や、宮城真治「沖縄地名考―県下の地名、三百四十一の意味を解く」は是非一読を勧める



ニューヨーク散歩―街道をゆく〈39〉
ドナルド・キーン   
週刊朝日1993年3月5日~6月25日号連載
マンハッタン考/平川英二氏の二二年/ブルックリン橋/橋をわたりつつ/ウィリアムズバーグの街角/ハリスの墓/コロンビア大学/ドナルド・キーン教授/角田柳作先生/御伽草紙/ハドソン川のほとり/学風/日本語/奈良絵本/ホテルと漱石山房/さまざまな人達 

第39巻は街道をゆく絶巻43巻を除くと一番本が薄い
ということは常に歴史を語る司馬(本名福田定一)としては幾分か物足りない旅であったかと想像された
が、読み進めばそれが誤りであることにすぐ気付く
メインの話題はドナルド・キーン 鬼怒鳴門 1922年生である 2014年日本国籍を取得したことは有名である
キーンは昭和10年代、仏教布教で渡米後コロンビア大学で日本文化を講義していた角田柳作に師事した
その後、米海軍通訳として当時日本軍が占領していたアリューシャン列島のキスカにわたり
日本軍医が欺くために残した標章「ペスト患者収容所」を翻訳し、ペスト感染が疑われ後方支援に回った
戦後も角田のもとで日本文学研究を続けハーバード大学、ケンブリッジ大学、京都大学に留学している
英語のみでなく日本語の書籍も多く 新潮社版全集では日本の文学、百代の過客、碧い目のの太郎冠者など文化に関する考察は深い
これだけ日本文化研究に没頭することになった理由としては戦時中、翻訳者として日本軍人の戦地からの肉筆の手紙に触れ(諜報活動の一貫?)、洗練され完成した文学には見られない生身の日本語に接し、解読する作業が多かったからともいわれている

ニューヨーク散歩は小品ながらも日本人となったドナルド・キーンの著作に触れてみたいと思わせるには十分な重さである


台湾紀行 街道をゆく (40)
日本が良かったのか中国が良いのか,  
1993年7月2日~1994年3月25日号 週刊朝日に連載
流民と栄光/葉盛吉・伝/長老/でこぼこの歩道/歴史の木霊/二隻の船/李登輝さん/続・李登輝さん/南の俳人たち/馬のたとえ/児玉・後藤・新渡戸/潜水艦を食べる話/客家の人たち/看板/魂魄/沈乃霖先生/伊沢修二の末裔/海の城/海りょうの貴公子/八田與一のこと/珊瑚潭のほとり/鬼/山川草木/嘉義で思ったこと/山中の老人/日本丸が迎えに/浦島太郎たち/大恐慌と動乱/寓意の文化/山人の怒り/大野さん/千金の小姐/花蓮の小石/太魯閣の雨/対談・李登輝

中国は多民族国家であり、漢民族だけが歴代の皇帝ではない
清は満州民族による最初で最後の漢民族支配である、日清戦争後下関条約で日本へ割譲されたが、清でさえ台湾は化外(統治の及ばない)の地と考えていた。
その台湾に日本は官僚をおき、台湾人(高砂族をはじめとする少数民族と中国からの外省人)の反抗はありながらも製糖産業、金融業を発展させるだけでなく、交通、水利・水道などのインフラストラクチャーの整備のみならず、高等教育、公衆衛生など日本と同程度の事業がおこなわれており近代国家の礎を構築した。
皇民として太平洋戦争にも従軍し多くの兵士を失ったことは日本人と同じである。というか、日清戦争後から太平洋戦争後までは台湾人は、日本人であったのだ。
このため第二次大戦後の中国支配において中国本土から逃亡した蒋介石および中国共産党との二重支配とでもいえる支配の中で台湾人は殺戮され貶められた歴史を生き抜き、現在のように高度に発展した国家を作り上げたことは日本統治の影響も否定はできない
蒋介石は漢民族であったが、次の総統李登輝は台湾人である。旧制台北高校から京都帝大農学部卒業し、戦後は台北大学に編入し1990年に総統選挙で総統に就任し、真の台湾の政治経済教育に尽力した 司馬との対談が巻末にあるが日本人として台湾人としてまた客家(漢民族の少数民族)としてそしてプロテスタントとして台湾歴史の中で光り輝く存在である

1972年日中国交正常化の際に中華民国:台湾との国交が外交上消滅したことは、日本にとってよかったのだろうかという疑問が残る。
国交が外交上存在しないために日本に台湾:中華民国の大使館は存在しないが民間の台北駐日文化代表処が実質的に大使館業務を施行している
台湾の歴史を知ったことで、中国とは全く異なる中国の魅力は深まった

さらに最高峰玉山(昔ニイタカヤマ)3952mで、かつては日本の最高峰でもあり、南北に連なる山脈の麓にある数々の景勝地は魅力をさらに倍増するものである
1位:太魯閣峡谷(東海岸)  2位:日月潭(中西部)  3位:阿里山(中西部)というランキングもあるらしいのでぜひ一度行ってみたいものだ
中国とは異なる中国であるというのは言葉も異なることから言える
こんにちは       北京語ニイハオ      台湾語リイホウ 
私は日本人です    ウォシーリーベンレン  ゴアシジップラン
お嬢さん        シャオジエ          ショーチャ
お名前は?       ニングイシン        リクイシ
ご遠慮せずに     ブークーチ          ベンケーキ
ありがとう        シエシエ          トーシエ
すみません      ドゥエブチ          パイセー
かまいません      メイグアンシ        ボイアウキン
いくら?         ドウシャオチエン      ゾアトエチン
さようなら        ザイジエン          サイキェン     など

街道を行くの中でもオランダ、バスクととも外国紀行としてもお勧めであるが
それは司馬によって語られる歴史が新しく身近であるということだけでなく
司馬自身の歴史でもありまた、たまたま日本人贔屓の登場者が多いのも台湾紀行を好ましく思う理由であろう
「街道をゆく」も、あと3巻で終わってしまうと思うと寂しい限りである そして次に誰の本を手に取るかも大いなる悩みでもある



北のまほろば―街道をゆく〈41〉
豊かな縄文時代にはアートが生まれた,
19994年5月22日~1995年2月24日号週刊朝日に連載
青森県
古代の豊かさ/陸奥の名のさまざま/津軽衆と南部衆/津軽の作家たち/石坂の"洋サン"/弘前城/雪の本丸/半日高堂ノ話/人としての名山/満ちあふれる部屋/木造駅の怪奇/カルコの話/鰺ケ沢/十三湖/湖畔のしじみ汁/金木町見聞記/岩木山と富士山/翡翠の好み/劇的なコメ/田村麻呂の絵灯籠/二つの雪/山上の赤トンボ/志功華厳譜/棟方志功の「柵」/移ってきた会津藩/会津が来た話/祭りとえびすめ/斗南のひとびと/遠き世々/鉄が綿になる話/恐山近辺/三人の殿輩/蟹田の蟹/義経渡海/竜飛岬/リンゴの涙

青森だけで一冊をまとめた司馬の思い入れが分かる
縄文前期の三内丸山遺跡は6本の巨大支柱が神殿のものなのか謎が残る
縄文後期の亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶はその宇宙人であるかのような容貌は有名である
 このフォルムは一体何を意味するのか それはアートの存在である アートが生まれるほどに生活つまり食糧が豊かであった証左である
東北には弥生文化(古代稲作)は存在しないといわれていたが、田舎館村の垂柳遺跡は水田遺構が発掘されその間違った常識が覆された
津軽は冷涼であったが海山での狩猟採集生活に非常に適したところで豊かな土地であった 大和政権が強要した稲作による統治なぞ受けなくても十分に生活できたのだ

津軽では太宰と棟方を語らずにはいられない
太宰は司馬にとって評価するにあまる存在であったようだ 40歳過ぎて初めて太宰に深く触れた
棟方は独創的に自由に生きる ただ自由に生きるだけでは 著名人にはなれない 才能を発掘し援助したのは柳宗悦であり浜田庄司ら民芸論者であった わだば津軽のゴッホになる  ゴッホは義理の弟がパリで画商をやっていたにもかかわらず生前の評価は低く生活は弟に頼っていた ゴッホのあまりに独創的な描き方のせいで
棟方も石工が石を穿つかのような強い線でありながらも一塊の筋肉の描写には優れていた ゴッホは成功を見ずに死んだが棟方は成功して点はゴッホを超えたかもしれない

棟方の作品の中で善知鳥(うとう)がある チドリ目・ウミスズメ科に分類される海鳥の一種
能の演目でウトウという鳥を殺して生計を立てていた猟師が死後亡霊となり、生前の殺生を悔い、そうしなくては生きていけなかったわが身の悲しさを嘆く話とされている ウトウという海鳥は、親鳥が「うとう」と鳴くと、茂みに隠れていた子の鳥が「やすかた」と鳴いて居場所を知らせると言われ、それを利用して猟師が雛鳥を捕獲すると、親鳥は血の雨のような涙を流していつまでも飛びまわるという言い伝えがあり、そのために捕獲の際には蓑笠が必要とされた(ウィキペディアより)

更にもう一つ明治維新で会津が没収され下北に斗南藩を与えられ不毛の地で窮乏生活を送ったという歴史である
維新後数年で斗南の地名はなくなり移住した会津藩士は若松に帰京したというが残留藩士は日本初の民間洋式牧場を設立したり
教員官吏となり教育政治で名を挙げたのは会津魂であろう
青森は南部といい津軽といい骨太の藩士が多かったようだ



三浦半島記-街道をゆく (42)
武士の出現と、鎌倉幕府の役割が良く分かる,  
週刊朝日 1995年3月24日~11月10日号に連載
鎌倉、六浦道、横須賀(神奈川県)

武者どもの世/血と看経/伊豆山権現/三浦大根と隼人瓜/三浦大介/房総の海/崖と海/”首都”の偉容/銀の猫/化粧坂/青砥藤綱の話/墓所へ登る/頼朝の存念/三浦一族の滅亡/鎌倉の段葛/鎌倉権五郎/横浜の中の鎌倉文化/頼朝と秀吉/「三笠」/記憶の照度/昭和の海軍/久里浜の衝撃/ミッドウェー海戦/横浜・二俣川/鎌倉とキスカ島/一掬の水/鎌倉陥つ

律令体制下で天皇や公家は京都に常駐し、地方都市管理は国司、郡司に任せていた
そのご土地開拓者が荘園主に土地を寄贈すること土地私有が認可された
土地開拓は進み荘園がふえるとともに領主同士の土地支配目的の争いが多くなり、その地の農民は帯刀し武士となった
鎌倉幕府の成立によりこれらの武士は、幕府につかえる御家人となり地頭としての地位を固めることになった
地頭といっても荘園領主と主従関係にあり下位に属するものである

平清盛が武士として初めて官位である太政大臣の地位に昇りつめ京都において武家政治が始まり源氏がそれに勝利する
関東においては武士の土地支配欲による争いが多くあり、鎌倉幕府はその裁きを最大の任務とした
守護は地方管理官、警察であり、地頭は荘園の管理、税務官としての役目を負わされ
農民と地頭との間の紛争解決目的の法律、御成敗式目が作られた

頼朝が弟である義経を手にかけたことは有名であるが、頼朝に相談もなく官位をうけたことも起因するが
親であろうが兄弟であろうが、関東武士を統括するにあたっては血縁関係などこだわっていては幕府としての体制が整わないという考えがあったのであろう

他に鎌倉幕府に尽力しながらも滅亡した三浦一族や、日露戦争時に活躍した戦艦三笠や
海軍はスマートであれの帝国海軍設立の経緯など 鎌倉、横須賀、三浦半島周辺を忙しく動き回り、幾分か節操がないとも思われるが
京都奈良の雅た歴史よりもより泥臭い武士台頭の様子がみてとれる
 
街道をゆくも後一巻で終わりである この先数多ある歴史小説に入り込んでしまうかと思うとおそろしい




濃尾参州記―街道をゆく〈43〉
絶筆なれど 普遍とす,   
週刊朝日1996年1月19日~3月15日号に連載
東方からの馬蹄/田楽ヶ窪/襲撃/御水尾・春庭・綾子/高月院/蜂須賀小六/家康の本質/
余話・司馬千夜一夜(著・阿部光雄)/名古屋取材ノート(著・村井重俊)

司馬は家康びいきなのかもしれない 三河の一農村、松平からでて、臆病さを部下にも隠さず、これを司馬は愛嬌といったが、
勇気と無謀の差は、情報収集して起こりうべきことに対する対策を練ったうえで、安全策をとるか危険策をとるか
危険策をとるも予想通りの良い結果が得られればそれは勇気と呼ばれ、不得であれば無謀といわれる
ホトトギスのたとえで、鳴くまで待とうといわれている家康であるが、考えすぎて
ホトトギス ほんとに鳴くのか ホトトギス 疑心暗鬼  
小心で極めて慎重だが悪意がないものとして司馬は描いている

この濃尾参州記で司馬は何を描こうとしたのか 
濃尾参州記として、すでに小題で7回執筆している。かつて小題は多いと33-34個となるのでそれと同等の執筆になるとするとの残り、26,27回となる
この長さだと、十分に家康の天下取りまで可能であろう
しかし残念ながら1996年2月10日深夜、腹部大動脈破裂、2月12日逝去

掲載地図には清州城と長久手も出ていたような気がするので、清州城に行って信長との同盟について語り
信長の死後、秀吉軍と徳川・池田軍は小牧・長久手で争うことになるが、裏切りや権謀術数の激しいやり取りののち
家康は秀吉に伏し、太閤政治が始まるのである
家康は三河から江戸という無文化の土地へ移封させられたが、秀吉が狂気にむしばまれたのち
石田三成、毛利輝元らの西軍に対し関ヶ原で勝利をつかみ征夷大将軍となり、京からはるかに離れた鄙の土地、江戸において江戸文化という庶民文化が開花していく基礎が形作られていくのである
江戸文化までも語れるやもしれない

街道をゆくは、絶筆である が
続きは読者各々が、歴史を再認識して、新たな街道を歩むことで、普遍となるであろう




全43巻すべて読み終えた。各巻ともに歴史と人を交えた地域描写がありそれぞれに趣意あるものだが、自分の思いに残ったものを挙げてみる。

第3巻 陸奥の道  南部は甲州に起源をもつ
第7巻 砂鉄の道  日本に稲作が広まるとともに農機具として鉄器の存在は不可欠となる
たらら製鉄を起こしたのは朝鮮半島からの移入人である。それが今でも伝統的和鋼として生きているのはすばらしい。特に日本刀鍛造に最大限の魅力が注がれる

第11巻 肥前の諸街道 キリスト大名であった九州諸藩の大名は貿易のためにキリスト教に改宗し、藩の財政を維持した
第12巻 十津川街道 奈良の山深地の民が戦乱に駆り出され、維新の際には皆士族となった
しかし繰り返される川の氾濫から故郷を捨て北海道に新天地をもとめ新十津川村を命名した
第17巻 島原・天草の街道 キリシタンが単に大名に氾濫したのではなく、非常識な統治をおこなう大名に対する民衆運動が歪められて歴史に残されている

第22,23巻 南蛮の道 スペイン、フランス国境の少数民族であるバスク人 いまやその存在だけがバスク文化すべてであり、他には何も残っていない そしてザビエルの話
第27巻 壽原街道 土佐から伊予への脱藩の道である 竜馬もこの道を越えた 関の役人もこれを見逃したことが明治維新の偉人たちの 多くは下級武士であるが 活躍を支えたといってもよい
第28巻 耽羅紀行 済州島は単なる観光地ではなく政治犯流刑の地である。ゆえに文化教養のたしなみ多くその伝統から国立大学も設立されているので侮るなかれ

第30,31巻 愛蘭土紀行 カトリックであるアイルランド人の迫害の歴史がつらい。アイルランド系アメリカ人は全人口の10%約3000万に上るという Mc—----,McArthurや,O’--,O’Neilなどが特徴的な名前である。JFKもアイルランド系で他にも有名人が多い 無論一番はイングランド系ではあるが 警察官の割合が高いのもアイルランド系で独自の気質があるという
第33巻 会津の道 会津は東北ではなく、東北の入り口として早期から高い文化と徳一のように空海最澄に劣らない人物を輩出し会津藩士に継承される正義を持ち続けた気質である  
日和見的な長州人とは相容れぬのは当然のことである
第35巻 オランダ紀行 狭い土地の中で懸命に産業を興し東インド会社で世界一の地位を築いた海運 そして生前は決して日のあたることがなかったひまわりのゴッホの歴史である

第36巻 神田界隈 第37巻 本郷界隈 江戸末期には戦乱もなく参勤交代のため江戸詰めの藩士が多かった。戦乱がなくても武士たるもの文武両道に励むべしという気概はあり、神田には儒学や朱子学の私塾、剣術道場が多く設立された 昌平黌もそのうちの一つ 明治維新というあたかも無血の革命かと勘違いされる時代の移転期がいよいよおこる
しかしその体外政策の実態は尊王攘夷側も佐幕側も開国したいが信頼しているわけではなく、諸外国に対しての態度があいまいであった。維新となり幕藩体制が崩壊してのち各藩士は明治体制の中で皆士族として登録され、また大名もその禄高に応じて華族とされ公爵、侯爵、伯爵、子爵男爵と爵位を与えられて手厚く保護されたのである
これが革命なぞといえるわけがない 薩長支配する新生明治政府が幕府にとって代わっただけのことである、それどころか、神仏分離や廃仏毀釈など国家神道を強引に推し進め、幕政時代に保護管理されていた文化財クラスの寺社仏閣さえも管理が遠のき文化的衰退があったことは間違いない  イギリスやフランスやドイツに国家の法律を作るために留学するにしても法律を作るにしても、海外原文解釈の必要性が生まれ開成学校(東大の前身)の設立となる
私学法律学校、のちの明治、法政、中央、専修、日大など多く神田に作ることで神田は日本の法律のそして学問の中心になっていく 日大というのは欧州の法律ではなく日本独自の法律を学ぶところという意味での日本大学であるという
さらに開成学校は法律作成官吏養成機関として拡大し、その伝統はまさに東大法学部卒官僚へとつながっている 帝国大学は東大だけでありその本質が役人養成しかしないという偏向から、役人的でない自由な校風を持った大学を目指して京都大学が開学するのは遅れること20年である
本郷界隈では加賀前田家藩邸跡にたてられた東大の歴史に触れる 最高学府は最古学府であり
歴史的散策も楽しめるであろう 

第38巻 オホーツク海道 縄文人でもなく擦文土器という独自の文化をもったニブヒやウイルタという樺太少数民族の歴史がオホーツク海側には存在した そのご鎌倉時代になり内地からアイヌ民族が追いやられてくることでアイヌ文化が始まるのである  そして近代になり倭人によるアイヌ迫害、搾取、惨殺という倭人の恥ずべき歴史的行為が繰り返されるのである
その源流は稲作により日本統治を進めた大和政権から続くこと1000年以上 狩猟採集を主とした移動生活民族は北海道という狩猟採集適地において、その生命を大いに脅かされたのである

第39巻 北のまほろば 南部から別れた津軽 コメが取れないが狩猟採集生活は豊かであった
東北に弥生文化はなかったという常識が、垂柳遺跡で覆されただけでない 縄文中期後期の亀ヶ岡遺跡や砂沢遺跡そして三内丸山遺跡は、縄文弥生移行期の定住生活の遺跡である 有名な遮光器土偶はその宇宙人的容貌から有名ではあるがデフォルメされた形態はアート以外の何物でもない 生活が豊かであるからこそアートが作られるのである 
かつて北廻船は西岸の鰺ヶ沢や十三港、陸奥湾内の田名部今の大湊は廻船問屋がおおく上方との海運業で栄えた とくに十三湊は計画都市として整備発達したことが発掘調査で分かっているいまやその影はだいぶ消えてしまったようだ
第42巻三浦半島記では、農地を守る武士の出現と争い、そして鎌倉幕府の役目がこの土地紛争の評定所という役目であることが良く分かる。頼朝、義経の兄弟の争いは血縁よりも、鎌倉幕府という関東武士に対して威厳を表す場においては血縁や情などが介在する余地がないのである、という頼朝の決死の公言という意味合いもないことはない。無論義経の存在が自分にとって危険人物であろうという意味は当然ある。
話は変わるが、頼朝の肖像画はりりしい姿で描かれているが 義経のそれをみると貧弱である。征夷大将軍として描かれた頼朝と謀叛者としての描かれる義経の差は余りにも大きすぎる。そして義経は判官贔屓としてしたわれれるが、その容貌は出歯であったという、余計なことも付け加えておく

津軽は太宰と志功でもって語られる べきであろう  太宰の「津軽」は読んだことがあったろうか、記憶は定かでないが、久々に小説を読もうかという気分になった
街道をゆくは、突然の逝去により絶筆となった。


司馬の歴史観は膨大な資料の中から積み上げられたものであり、たとえその歴史事実に誤りがあるにしろ、一個の歴史小説としては賞賛すべきものであろうことを、アンチ司馬遼に対してあえて伝えておく。
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  • 2015/07/28 (火)
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